DJ、ファッションを経て、ITビジネスの世界に。
――まず、創業に至るまでの経緯について教えてください。
私自身のいろいろな生き方やビジネスに関することをさかのぼっていくと、高校時代のテニス部にたどり着きます。変わっている部員ばかりで、全員がDJかMCができるテニス部でした(笑)。そこから、私もDJに本格的に取り組みはじめ、大学生になるとギャラをいただけるほどまでになりました。大学3年生まではDJに必死で、そのころは当たり前のように、DJでプロとして活躍することを考えていました。ところが、「DJだけで飯を食えている人はほとんどいない」ことに気づいてしまったのです。日本のトップDJでも、DJだけでは食べていけずに、楽曲提供などで生活費を賄っているのが現状でした。毎日6時間練習し、クラブでDJをする予定がある日には、夕方5時に入って終わるのは翌日の昼。それで稼げないのか、と思うと落胆してしまったのです。
ならば、「頭をビジネスに切り替えよう」という転機が大学3年生のとき。実は、音楽以外にもうひとつ、ファッションにも興味がありました。当時はユニクロを始め、ファストファッションが世の中を席巻し始めたころでした。それに危機感を覚えたのです。例えば、ユニクロが販売し始めたカシミヤは、私が知っているものとは別物でした。1万円もしない価格で、カシミヤとは言い難い品質のものが店頭に並んでいました。こういった服を好んで着るようになってしまえば、日本人のファッションはダメになってしまうと焦りを感じたのです。しかし、自分がそこに一石を投じようとしても、当時の日本のファッション業界は路面店を出して一歩ずつ軌道にのせていくような世界。実店舗を持つためには、資金力という面で大きな障壁がありました。それではいつ世界に対して、本物の日本のファッションを発信できるのか、まるでわかりません。
このころ、ちょうどインターネットサービスを展開する企業が台頭し始めたという時代背景がありました。その影響もあり、最先端である「ネット」の力を使って解決できないものかと、頭を抱えるようになったのです。すると、友人からリアルな店舗にこだわらずに、日本の本物のファッションを発信するなら「電子商取引」があると教えてもらいました。当時は「EC」という言葉もなく、通販といえばカタログが主流だった時代です。私自身も全く知識がなく、イチから調べて学ばなければいけない状態だったため、まずはIT業界に就職しようと決めたのです。
――当時、大卒でIT業界、しかもベンチャーという選択肢は珍しかったのではないでしょうか。
そうかもしれません。でも堀江貴文さんやサイバーエージェントの藤田さん、楽天の三木谷さんなど、キラキラしたITベンチャーの創業者が話題になっていたこともあり、憧れもあったと思います。ちょうど、堀江さんが日本放送を買収に乗り出すとテレビで放映されていたり、藤田さんが「渋谷で働く社長の告白」をいう著書を出版されたりした時期でもありました。
――ところが、最初に就職した会社はあまり長くは働かれていません。
アフィリエイトベースの広告代理店だったのですが、死ぬほど働けばのし上がれるはずだ、頑張れば頑張るだけ成果が出ると思って、まさに寝る間も惜しんで働いていました。ガムシャラに働き成果を出す一方で、社員をコマのように扱う社長に対しては、愛を感じないと思うようになりました。そのころ、後に大阪で有名な訪日旅行会社(ランドオペレーター)となる株式会社フリープラスを立ち上げた、大学時代からの知人である須田社長が上京してきて、私の部屋で深夜に飲むことがありました。そのとき「社長から愛を感じられない」などと愚痴を言っていて、自分で病んでいるという自覚はなかったですが、振り返ると少し鬱だったのだろうなと思います。須田社長はそんな状態を見かねて「会社をやるから一緒にやろうよ」と言ってくれたのです。ただ、ほかの会社からも何社か声をかけていただいていましたし、親に対して「3年は帰らない」なんて言って上京しているのにまだ半年も経っていない。正直なところ絶対に嫌だと思っていました。そんなことを考えていたある日、夜中の2時くらいに須田社長からメールが来て、「待ってる」と記載したメールの添付に僕の名刺がついていたのです。それに心を打たれて、もう行くしかないなと決心しました。
――その後、フリープラスで活躍されるわけですね。
フリープラスには9年9か月いました。Webマーケティング部門の担当役員をさせていただいて、いまのビジネスの土台になった大切な時期だったと思います。しかし、事業転換のなかで僕が担当していた事業が縮小されることになり独立、未知株式会社を立ち上げました。その思いについては、こちらで詳しく書いています。
周囲の支えが、自分のビジョンや目標に対する信念を呼び起こしてくれた。
――フリープラスに至る流れも逆境のように思えますが、ほかに逆境だと感じたことはあるのでしょうか?
未知を設立して4~5年のころで、最近の話です。そのときは、人を増やそうとしていた時期で、新卒採用も中途採用も力を入れていました。しかしそこで、中途で入ってきてくれた社員との温度差が生まれていたのです。彼らには明確にやってほしいことがありました。「この事業のこの役割を担ってほしい」という意図があって採用している。それはいいのですが、まだ当時、会社はできて数年、社員が30人いるかいないかという状況であり、社内の制度も十分ではなかったと思います。加えて僕を始めとする役員は、誰よりも忙しく動いていて、社員とのコミュニケーションが減っていました。そこでコミュニケーションが十分ではない中途採用の社員との間にどんどん溝ができてしまったのだと思います。結果、どんどん人がやめていきました。その光景をあおるような動きをする中途採用の社員もいて、ストレスがどんどん増えていきました。深夜に現副社長である坂元に電話で話していると、「こんな負のオーラが満載で、前を向いていない会社に行きなくない」「もう会社を畳んで、いまの幹部だけでやり直そうよ」と口に出していたこともありました。そこで「まだまだ大丈夫だから」と頑として反対したのが、いまの副社長です。
その翌朝、週に1度の全社員との朝礼の場で思いの丈をぶつけていました。「この後ろ向きな雰囲気の組織は、僕がつくりたかった組織ではない」とはっきりと言いました。それは本当に心から出た言葉でした。人がどんどんやめていき、会社全体に負のオーラが覆いかぶさるような感じだったのです。この言葉のあと、「僕がみんなを裏切ることは絶対にない」「なぜなら、僕は社長としてメンバーへの責任を背負っている。そんな僕が組織にとってマイナスなことをするなんて、何一つメリットがない」「もっと信じてついてきて欲しい」「メンバー同士が信じ合えていない、後ろ向きの組織なのであれば、もうこの組織を続けていきたくない」など、心の内をすべて伝えました。
当時、会社そのものが採用に積極的になって人数を増やしていくなかで、私自身がもともとコミュニケーションをとる方なのに、一時引いていたことがありました。社員からすると「なんだか社長が急に怖くなった、話をしにくくなった」と感じていたと思うのです。でも、その朝礼で、「久しぶりに下方さんの本音が聞けた」と言っていた人もいました。雨降って地固まるじゃないですが、あそこで思いの丈を話せてよかったです。私としては、本音をぶつけた結果、辞める人が更に増えても仕方がないと思っていました。ただ、結果としてその後一人も辞めることはありませんでした。後から思い返すと、最初の会社で社長からの愛が感じられない、大事にされていないと言っていましたが、僕の愛をメンバーに伝えられずに、当時の社長と近しい状況をつくり出してしまっていたのかもしれません。
「100社構想」を掲げ、社員が自身の目標や夢も追求できる環境へ。
――雨降って地固まったいま、これからの展望について教えてください。
長期的には粗利5億の会社を100社つくる、「100社構想」を掲げています。未知株式会社は、Webマーケティングやブランディング事業が中心ですが、なにもその事業にこだわっているわけではありません。そもそも未知は「世のポテンシャルを飛躍させる」ことがミッションです。そのために私がやるべきことは「ポテンシャルを秘めた人を一人でも多く大成させる」ことだと思っています。大成させるための手段として「事業」があるので、進出していく事業はどんどん増えていいと考えています。また、当社で働いている社員には「人生をかけて成し遂げたいこと」があります。それを事業としてかたちにしていき、まずは社員から子会社の社長第一号を生み出すことが短期的な目標です。100社つくるにあたって、多くの方が挑戦しやすい場所を提供するために、障壁の少ないシンプルな事業への参入も選択肢に入れています。そうすることで、一人でも多くの人のポテンシャルを開花させ、社会を豊かにしていきたいと思っています。