次世代を見据えた挑戦は、苦難と戦いの連続。
──逆境体験について教えてください。
30歳で独立し、インク・トナーカートリッジのリサイクル事業を手掛ける会社を立ち上げたのですが、「逆境体験」といえばずっと困難と戦いの連続です(笑)。どれからお伝えすればいいのかというくらいですが、今後当社にとって加速度的な拡大が見込まれるミャンマー事業のエピソードを中心にお話しさせていただきます。そもそもミャンマーに進出する前から、既存事業でアジア諸国と貿易を重ねており、2004年には香港に現地法人としてグループ会社を立ち上げるなど経営戦略として「日本とアジアの架け橋に」を掲げています。そして、2011年に当時軍政下だったミャンマーの民政移管が始まり、「アジア最後のフロンティア」と言われていた国に世界中が沸き立ちました。
これはまるで、鎖国していた日本が開国した「明治維新」のようなもので、経済発展を見込んだ投資マネーが世界中から一気に流れ込んだのです。当社もちょうど10年前現地にオフィスを構えてビジネスをスタート。飲食店や物品販売、貿易、コンサル、ホテル事業など色々な事業に手を出してはトライ&エラーを繰り返しました。もともと事業は「10個展開して、あたるのは1つくらい」という考えを持っているのですが、それでも「やめておけばよかった」と思ったことがあるほど、苦難の連続でしたね。
そのうちのひとつが、優秀なミャンマー人と日本企業をつなぐ「海外人材事業」だったのです。最初の6年ほどは鳴かず飛ばずの状態でしたが、他社に先駆けて手掛けたこともあり徐々に実績を積み重ねていきました。それ以外のビジネスは撤退し、創業以来コツコツと蓄えてきた内部留保のうち、ミャンマー進出10年で6億ほどの損失を出しましたが、大きな成果も得られました。
背景として、日本は超少子高齢化社会に突入しており、生産人口が減る一方で高齢者が増加し続けるという構造的課題を抱えています。その解決の糸口として、外国人の働き手が既に日本で活躍しており、2022年には182万人を突破。現在、ミャンマーの働き手はそのうち4.6%ですが、将来的には45%以上になると私たちは予想しています。
日本語とミャンマー語は、文法と音韻が似ていることもあって、日本で働きたい方にとって覚えやすく、話しやすいというのも特徴ですね。
アクセルを踏んだミャンマー事業に暗雲が。しかし、チャンスの萌芽も。
──決断したミャンマー事業の、その次の展開が気になります。
「ミャンマー事業を一気に拡大する」と全社を上げて、アクセルをドンと踏み込みました。まず、1ヶ月750万円の賃料で、中心部にある3つの大きなビルを借りたのですが、向こうの商慣習は1年分前払いなので約1億円を収めました。するとなんと1ヶ月後に「コロナ」が…。ミャンマー政府から日本語学校に閉鎖命令が出て、3つのビルから誰もいなくなりました。これは大きな逆境でしたね。コロナ初期は「すぐに回復するだろう」という風潮があったので、ビルとの契約を結んだまま日本語教師も待機した状態で様子見をしていたのですが、収拾するどころか蔓延。コロナ禍でトータル約3億円ほどの損失を計上することになったのです。
ただ、そんな中でオンライン教育に切り替えて、ノウハウを蓄積することができました。また、これはケガの功名というべきところですが、コロナ禍で日本人スタッフが帰国した後に頑張ってくれたミャンマーの現地スタッフたちで、組織を切り盛りできるようになったのです。もともと優秀なスタッフばかりだったので、任せきる体制になったことが功を奏しました。
そして、忘れもしません。2021年2月1日に軍事クーデターが勃発したのです。日本でもメディアで取り上げられたような事態が起こりました(編集注:市民に対して軍部が銃を向け発砲。オンラインなど通信手段が数ヶ月遮断)。約4ヶ月ほどは何もできず、これはもう青天の霹靂という他ない事態でした。昨年になって、ようやく入国制限が緩和され、以来ミャンマーの約2700名を日本企業に送り出すことができました。
「天災・クーデター」といった、会社の努力ではいかんともし難い試練が連続でやってきましたが、それを乗り越えたからこそ、チャンスも訪れています。現在、発展途上国の給与は上昇しており劇的な円安も相まって、そこで暮らす人々にとって「円」の価値は以前ほど高いものではなくなっています。つまり、「日本で稼ぐ」というメリットが低下しているのです。一方、ミャンマーは軍事クーデターによる経済制裁で、通貨価値が4分の1ほどに暴落し、経済が壊滅的なダメージを受けました。ですからミャンマーから見ると日本は円安の国ではなく、超円高の国なのです。そんな中でもともと人気があった日本に来て「働きたい」という人材が、私たちが運営する「ミャンマー・ユニティ」に殺到しており、うれしい悲鳴です。
踏みとどまり、投資を続けた諦めない精神。
──試練を乗り越えたからこそ、得られた教訓を教えてください。
教訓としては「とにかく、諦めない限り続けて乗り越えたものが勝つ」ということでしょうか。当社も普通の会社ならとっくに潰れていたかも知れませんが、リサイクル事業の利益を注ぎ込むことで、乗り越えることができました。軍事クーデターが起こったとき、多くの企業が撤退したのですが当社は踏みとどまりました。その理由は「日本行きを心待ちにしている、ミャンマー人がたくさんいた」からです。人の人生を預かる仕事なので、自分たちだけ逃げ出すことはできませんでした。
そして、「大きな果実を得るには、その分の投資」は不可欠ということも大切です。今、JETRO(日本貿易復興機構)によるとミャンマーの日本語能力試験応募者が10万人を超えるなど、日本の人気は高まるばかり。当社は最後まで踏みとどまったおかげで、信頼と実績が高まり、その需要を一身に受け止めています。私たちが運営する「ミャンマー・ユニティ」に優秀な人材が集り、2022年3月1日から2023年9月4日までの人材送り出し実績において、第2位との差が約2.4倍という圧倒的首位をひた走ることができているのです。(MOEAF<ミャンマー送り出し機関協会>発表数値)
しかし、これはまだまだ序章にしかすぎません。「日本で働きたい!」と考え、日本を好きでいてくれるミャンマー人たちがもっと日本で働けるようなお手伝いをしたいと考えています。苦難にあえぐミャンマー人に日本で働く機会を与え、同時に日本の少子高齢化・労働力不足に最大限貢献したいですね。逆境を乗り越えたことで得られたビジネスチャンスを、拡大への起爆剤にしたいです。
年齢に関係なくチャレンジできる日本。とにかく「行動力」が重要です。
──若者へのメッセージをお願いします。
とにかく、「悩んでいる暇があるなら、動きましょう」ということですね。私が起業したころ、みんなから口々に「30歳で独立するなんて、若すぎるから辞めなさい」と言われました。だから会社を立ち上げる時も、親に心配をかけないように内緒にしていたくらいです。また、当時は確かに起業のリスクが高く「失敗したら、一生借金に追いかけ回される」という時代でもありました。だから人生経験でノウハウを得て、資金も貯めてから「ようやく独立」という流れだったのです。でも今なら、アイデアと行動力があれば投資家から出資をしてもらって、「10代からの起業」も現実のものとなっています。先述した通り「10回中、成功するのは1つくらい」というのがビジネスの定石なので、逆境や失敗体験も自分自身の財産になりますよ。
もう一つは「やりたいことを全力でやって欲しい」ということも伝えたいですね。よく若い方から「何にチャレンジしたらいいかわからない」という相談をいただくのですが、「誰もやりたがらないことをやった方がいい」とアドバイスしています。私の場合も、新卒で入社したCSKで社内ベンチャーとして始めたリサイクル事業は、創業者でカリスマ経営者だった大川功さんから「やめときなはれ。ソフトウェアの方がええで」と言われていましたし、社員たちも反対していた状態でした。しかし成功して独立も果たし、今でも新たなビジネスに挑戦するときの源泉になっています。大人たちが反対するような事業にこそ、成功の芽が眠っていると思いますよ。