多士済々の人間関係に恵まれ、切磋琢磨した経験を活かして起業。
──現在、ふたつの事業を展開されています。まずは「アスリートのマネジメント」のビジネスを始めたきっかけについて教えてください。
2005年~11年まで「東北楽天ゴールデンイーグルス」の広報を担当し、私のボスのひとりは当時の球団社長・島田亨さんでした。広報として勤務する中で、メディア対応や関係構築、TV番組へのプロモーション手法を編み出すなど多岐にわたる経験を積むことができました。当時は50年ぶりのプロ野球新規参入球団で前後50年参考になる事例がなかったのですが(笑)、NPB参入から「選手も球場も試合経験も完全にゼロの状態から、わずか4ヶ月で開幕までこぎつける」「20~50億円の赤字が常態化していたパ・リーグにおいて、初年度に黒字計上」という日本野球史上に記録を残すような、伝説の経営者の背中を見て学ぶという貴重な体験ができました。既成概念や枠組みにとらわれず、本質が何かを見極めて事業を進めて行くことを学び、体験しました。島田さんとのご縁は続いており、当社の主要株主のひとりです。
また、広報部と兼務することになったふたりだけの部署「IT事業部」の上司に現・ヤフー株式会社CEOの小澤隆生さん、本籍の広報部では日韓ワールドカップの組織委員会の広報や東京五輪招致委員会や同組織委員会で広報部長も務めた日本のスポーツ広報の権威とも言える西村亮さんや現在・阪神タイガース・常務取締役球団本部長の嶌村聡さんが上司、同僚には株式会社ビズリーチを起業した南壮一郎さんがいるなど、多士済々が集まるという恵まれた人間関係の中で仕事をすることができました。ここでのキャリアを礎に、まずはアスリートのマネジメント事業をスタートすることにしたのです。
──2011年の東日本大震災では、広報の陣頭指揮をとられたそうですね。あの名スピーチの仕掛け人だと聞いています。
当時の流行語大賞にノミネートされた嶋基宏選手の「見せましょう、野球の底力を」「見せましょう、東北の底力を」のスピーチのことですね。スピーチの叩き台を出し、嶋選手とともに内容を考えました。あのときの状況を考えると今でも胸が痛みますが、震災の復興を応援して頑張る選手たちを裏方として支える仕事ができたことは今でも私の誇りです。
──もうひとつの事業「メディアの運営」について教えてください。
2017年から野球を中心としたスポーツや、ヘルスケアなどを取り上げる自社メディアの「CoCoKARAnext」をスタート。今ではYahoo!などの大手ポータルサイトでの記事閲覧を含めると、現在月間1億PVという多くの人に見ていただける媒体になりました。事業としても当初は赤字続きで苦戦しましたが、2年前から黒字に転換。今後はスポーツの領域での拡大はもちろんですが、市場規模の大きなヘルスケア領域のコンテンツの充実を目指したいと考えています。
難局を切り拓いたのは、自己変革。肩の力を抜くことで好転。
──華々しいキャリアをお持ちで、その経験を活かした事業展開をされています。順風満帆に見えますが、逆境体験はございますか?
実は起業してから「楽だった」と思ったことは一度もないですね(笑)。振り返ると試練が次から次へと襲いかかってきたイメージです。そもそものお話をすると「楽天と仙台に骨を埋める覚悟」で入社しましたから、起業することや、今やっているような仕事をするつもりはありませんでした。
独立することになったきっかけは、ある有名アスリートの海外進出と、ときを同じくして球団の先輩から一緒に会社を辞めて起業しないかと誘われたことです。その先輩は国際担当として外国人獲得業務を行っており、選手の契約や移籍に関するノウハウがあるのに加え、私はメディアやスポンサーに強かったので、高いシナジー効果を生み出すビジネスを展開できる、これまでの日本のスポーツの世界にはないことができると考えました。当時球団社長だった島田亨さんからも引き留められましたが、その選手と先輩との約束を守るために私だけ先に退職して、準備を整えていたところ、選手のスキャンダルが発覚。その火消しに奔走しました。危機管理広報と呼ばれる、スキャンダルなどに対応する仕事はさまざま経験してきたのですが、心を削りながら対応していたのを覚えています。
当時の状況を野球でたとえるなら「荒れた試合のクローザーになり、なんとか犠飛1点、自責点0で抑えた」というイメージですね。ただそこまで尽くしたにもかかわらず、その選手と起業へ誘ってくれた先輩とは袂を分かつことになり人間不信に陥りました。起業を誘ってくれた先輩は、スキャンダル対応に追われる様子を見て「やっぱり、楽天に残るわ」と言われ…。その選手や先輩に筋を通そうと私だけ先に楽天を辞めて、会社の立ち上げ準備をしていたので、「何で私はこれだけ愛着があって誇りに思っていたイーグルスを辞めたんだっけ?」って(笑)。まさに踏んだり蹴ったり、それどころかそもそもの根幹を成すモノがなくなってしまったような気持ちになり、何のために、どこに向かったら良いのかが全くわからなくなりました。
──「人間不信」という逆境から、どのように復活したのでしょうか?
最初の1年ほどは気持ち的に落ち込んでいました。3人がいて初めて成り立つ構造、構想だったので。
また、私を信頼して契約を結んでくれているアスリートもいましたし、事業も前進して、気がつくと取引先から銀行口座に数千万円が振り込まれているような状況だったので「責任感」でとにかく突っ走りました。自分は信頼している人を裏切るような人にだけはなりたくないという思いがとにかく強かったんです。
しかしこれが「自己犠牲感」とでも言うのでしょうか。長らく私自身を苦しめることになります。「いろいろと辛いこともあったけど、自分さえ我慢すれば道は開ける」「何もかも捨てて、事業に没頭しなければならない」「自分が犠牲になっても他人が良ければ良い」という根性論の呪縛にとらわれていました。自分では意識していなくても「私がこんだけ犠牲になって、我慢しているのに」という気持ちがでてきて周囲の人に対して優しくできなくなってしまう。しかし「自己犠牲感があると、フェアな人間関係は構築できない」「アスリートも休みをとることで高いパフォーマンスを発揮できるのだから、ビジネスパーソンもリフレッシュが必要」ということに気づき、“肩の力を抜く”ことを覚えました。それからは、スッと気持ちが楽になりましたね。今は子どものことなど、プライベートも仕事も大切にするライフスタイルを送っています。
──世界を襲ったコロナ禍も難局だったと聞いています。どのように乗り越えられましたか?
世界中でスポーツのイベントや大会の開催が見送られ、スポーツ・エンタメ業界も自粛の嵐でした。たとえば当社の所属タレント、山田邦子さんの講演もすべてキャンセルになるなど会社運営において大きなダメージを受けることになったのです。世界中のスポーツが止まったり、遅くなったので…。そこで銀行融資を受けたり自分の給与をカットしたりするなど「守り」に手を尽くすとともに、自社メディアの拡大など「攻め」に注力。それが功を奏して、数多くの人々に届く媒体に育てることができました。既存のマネジメント事業も戻って来た、いやコロナ前以上に良くなってきました。
苦しいときにやっていたことは「諦めないで、考え抜いて、やるべきことをやる」ですかね。私が言うのもなんですが、腹が据わっていたというか。
会社として新たなフェーズへ。新たな人材との出会いを求めて。
──今後のビジョンについて教えて下さい。
この数年はコロナ禍で厳しい局面がありましたが、それ以前から手掛けている自社メディアなどの事業が4~5倍に拡大し、コロナ禍で苦しんだマネジメント事業も回復しており今年は回復期間だと捉えています。来年以降は会社として次のステージを目指し、新たな人材を採用する方針です。私自身も、当社を立ち上げてからはメディアへの露出を控えていたのですが、今後は呼んでいただければ積極的に出ていきたいと考えています。
今年の回復期を終えると、会社としてステージが変わって行き、より発展の段階に踏み出そうとしています。もちろん、これまでもそこそこ痛い目にもあってきているので(笑)、リスクヘッジも考えつつではありますが、創業期からコロナ禍を含めた困難を乗り越えてきたという自負があります。
──どんな人材との出会いを求めていますか?
当社の歴史はトライアンドエラーの積み重ねなので、一緒にチャレンジしてくれる方に来て欲しいですね。具体的な職種だと、たとえばマネジメント事業では法人向けの営業をしてくださる方にお会いしたいです。スポーツ、アスリートやエンタメに対する愛情はもちろんですが、愛情がありすぎるあまりに「神聖化」してしまう人を求めているわけではありません。それらが世の中に対してどんな価値を持っているモノなのか、そのためにはどのような計画や行動が必要なのかを考えられ、実行、行動できる人が良いと思います。
3つの「や」を軸にすることで、今を見つめて未来予想図を描く。
──貴社のスタンスである「スポーツ界に一石を投じたい」という理念についてお聞かせください。
原点にあるのは、学生時代に打ち込んできたスポーツへの強いこだわりと、一方で感じていた「悪しき体育会系の因習」への反発ですね。「こうじゃないといけない」とか、固定観念は良くないと思います。自分自身、常識にとらわれず、人と違っていても、こうあるべきだ、理にかなっているということを貫いてきました。
学生時代に嫌な思いをして、スポーツから遠ざかりたいと思って最初に選んだ会社はスポーツとは縁の遠い貿易商社。まだできて間もないベンチャーで、新卒同期7人を除くと4人の会社でした。エネルギーを存分に活かせる面白い仕事でした。一緒に入社した同期も「慶應出て日銀の内定を蹴ってベンチャーに入った」という一風変わったタイプの逸材たちに囲まれていました。その会社も2年後に東証マザーズに上場したり、同期達もその後上場企業の役員になったり、起業して成功したり、今思えば当たり前の水準が高い職場環境で切磋琢磨しあえる刺激的な組織でしたね。
その後、楽天イーグルスが立ち上がることを知り、自分を育ててくれたスポーツにゼロから加わり、「日本のスポーツや文化に一石を投じることができるチャンスだ」と考えて参画しました。ここでも前述の通り、「当たり前の水準が高い職場環境」で、毎日ついていくのが必死だったのに、気付いたら色々な意味でステージを引き上げてもらいました。
今の仕事でも、スポーツに限らず、さまざまな世界で活躍、成功している当たり前のレベルが高い人々の中で仕事をさせていただいています。「誇りに思えるスポーツ選手、コンテンツをつくり、発信する」という信念のもと、スポーツ界を盛り上げるために奮闘しています。
もしかすると私が小学校をアメリカの田舎で過ごしたことが影響しているのかもしれないですが、「こうじゃないといけない」という固定観念にとらわれないで、常に「もっと良い方法、選択肢があるんじゃないか」と考えているのかもしれません。社会人になってからは一般的に言う「ぶっ飛んだ」人たちの中で影響を受けて、一方で野球界という比較的コンサバティブな世界でも生き抜いて成長できたので、環境や仲間に感謝ですね(笑)。
――若者に向けてメッセージを、ご自身の経験を踏まえてお願いできるとうれしいです。
「転職したい」というご相談を受けたり、同級生や若手の経営者からアドバイスを求められたりしたときに、私が仕事の軸にしている「やりたいこと・やれること・やるべきこと」の“3つの「や」”で始まる言葉を大切にするという話をお伝えするようにしています。最初の「やりたいこと」はモチベーションにつながります。「やれること」はスキルや能力、人脈といった自分自身が持つノウハウやリソースを活かすことですね。最後の「やるべきこと」は使命感や責任感です。
私自身の経験からお話しすると、3つの「や」で「100点満点の仕事ができた」と思ったことはありません。でも、目指すべきだと思います。特にコロナ禍では生き残ることが先決だったので、アスリートや所属タレント、社員を守るといった「やれること」の点数は自分でも100点を与えてもいいと思いますが、「やりたいこと・やるべきこと」の点数は低いですね。今後は後者のふたつの「や」の点を加算していけるよう実践していきたいと思っています。