危機である程冷静に、誰かに怒りをぶつけても無意味
—— なぜ東レ株式会社から、経営危機だったお父様の会社に移ることを決心したのですか?
私の家族は男三人兄弟で、タイミングが来たら父が選ぶと言っていた事もあり、私は長男だったので、選ばれなきゃいけない、選ばれるような人間にならなければいけないという風に育ってきました。
正直、東レ株式会社から移る時、父の会社がどういう状態かは考えておらず、むしろ自分はやっと選ばれたと思って、喜びがあったくらいです。自分が父を助けるという気持ちでいました。
また、私が一橋大学の受験で、二回浪人することになった時、父に厳しい言葉をもらいながらも、許してもらえた事もあって、いつか恩を返さないといけないという風に考えていました。
なので、東レ株式会社をやめて父の会社に入りましたね。
――会社の状況を見た時の心境ってどうでした?
よくわからないまま父の会社に入ったのですが、中の状況を見れば見るほど想像を絶するような状況でしたね。8千万の営業赤字をかかえ、年に1億ほど金利を払わないといけない会社でした。
私は父を尊敬していたので、立派な経営者だと思っていましたが、それがどんどん崩れていき、自分の精神のバランスを保つためにも、私は父に対して怒りをぶつけていました。
――29歳で、ロールモデルとしていた父が崩れたという体験から、経営を戻す方向にどうやって気持ちを切り替えられましたか?
怒ることに疲れてしまったためですね。人間って常に本気で怒り続けることができないと実感しました。疲れたことによって気付けたのが、私が怒っていても何の解決にもなっていなくて、むしろ周りに迷惑しかかけていなかったことですね。
自分が怒っていることが無意味だと気付いてからの切り替えは早かったです。
元々抑えられなくなった感情を周囲に振り回すタイプではなかったので、冷静になってからは物事をロジカルに考えられるようになりました。
その結果、赤字の状態から黒字までV字回復を果たす事ができましたね。
どれだけ困難な状況でも足掻き続けるべき。その先に成功があるのだから
—— かなり大変だったと思うのですが、途中で投げ出したいという思いはなかったのですか?
全くなかったですね。ただ、私が死に物狂いでどれだけ頑張っても、この会社がどうにかなるとは思っていなかったです。むしろ、誰が何をやろうと、おそらく難しいだろうと思っていました。
私にできるのは、無理だと思っても一里の望みに賭けて足掻くことだという結論に至っていましたから、たとえ会社がダメになるとしても、そこまで足掻いて頑張った姿を見せれば、死んだ祖父も認めてくれるのではないか、そういう思いで頑張っていました。
足掻いている姿を見ると、人は共感し、理解してくれるのですよ。
なので、途中で投げ出したいという気持ちはなく、疲れたやダメだ、大変だというのは二の次でしたね。父の会社に戻った時は体力もありましたし、平気でしたね。会社に最後まで残っているのは自分でした。
言い方悪いですけど、相手を強引に思った方向に動かしていました。
「これしかないだろう、他の代案があるならもってこい。このままいってもダメになるとわかんないのか。」そんな風に言っていました。
私には体育会スキー部主将の時、相手に期待と負荷をかけ、内なるモチベーションを刺激するようなやり方で、後輩達に本気になってもらった成功体験があったので、この方法もとれたのですが、とにかく時間がなかったので、誰を傷つけようが、誰がやめようが仕方ないと思って行動していました。
その結果、入って2,3ヶ月で成果を上げ始め、半年で黒字まで戻し、2年目の営業利益は1億、3年目の営業利益は1億6千万まで戻しました。そんなV字回復を果たしましたね。入った時は半期終わったところで8千万の営業赤字でしたが、半年で取り返せました。
うずくまったら終わり。逆境であればあるほど動き続けろ
—— その後、再生ファンドに会社を売却し、一度会社を去られたと思うのですが、2011年に再び戻られましたよね。
リーマンショックと東日本大震災によって、日本経済が大ダメージを受けていた時、国内工場が宮城県にありましたから会社も大ダメージを受けていました。
当時の売り上げの9割が製造卸でしたが、卸先は東北の仕立屋が多く、売り上げが大打撃を受けましたね。震災によって、売り上げの3分の1が消えてしまいました。
それによって、赤字転落してしまいました。
震災の2年ほど前から会社を引き受けてくれていた親会社に切られたことによって、この会社を引き継ぐ人がいなくなり、私のところに話が転がり込んできました。
――そこによく飛び込めましたよね。
1回目に父の会社に入った時は何も考えずに飛び込んでいましたし、迷いなどもありませんでしたが、2回目は正直迷いましたね。その時は結婚をしていて、妻もいましたから、この人の人生も自分が背負っているという思いがあったので、自分の身勝手はできない状況でした。
しかも、会社を調べれば調べるほど、1回目の時と同じような状況で、入らない方がいい会社でした。その時、私は勤めていたコンサルティングの会社が震災によって倒産していたこともあって、転職活動を行なっており、幸いにも大手財閥系の会社から内定をもらっていました。
父に、「お前は会社に来てくれた時に頑張って、俺も感謝しているし、従業員だって感謝しているんだ。もう十分だろう、だからやりたい事やれよ。」そんな風に言われましたし、妻からも転職先の企業に行くよう勧められていました。
やっぱり父の会社に戻るのはやめた方がいいのだろうなと思いましたが、その時起こったリーマンショックと東北大震災って、100年に1回と言われているような事で、その2つが同時に起こるなんて凄い偶然じゃないですか。
その2つがなければ私のところにこの話がころがり込んでくることもなかったですし、オカルト的な話にはなるのですが、こんな偶然、もしかしたら祖父が戻れと言っているのではないかと思っていました。
祖父は口癖のように「迷ったら茨の道を行け。それが正解だから。」と言っていましたから。
そのタイミングで、何人かの社員から戻ってきてくださいと電話があり、最初の時と違って、今回は現場からも期待されて戻るので、やれるかもしれないとの思いが湧き上がって来ました。
その結果、茨の道である父の会社に戻ることを選びました。
――そこから、直販店の拡大をされて、軌道に乗せられましたよね。そこに、マイナスから立ち上がる強さみたいなものを感じるのですが、この強さの根本みたいなものをお聞きしていいですか。
立ち上がってまではいません。強さみたいなものも特にありません。ただ、私の中に、うずくまることだけはダメだ、「犬も歩けば棒に当たる」という、祖父から教えられた考え方がありました。
死ぬこと以外かすり傷だ、みたいなことも父が言っていました。
とにかくやってみろ、もしやってみて、うずくまった時が本当にダメな時だと思います。
だから、私は思ったらやるって事が幼少期から習慣づけられているのですよね。学生時代から、思った事を納得しない理由でやるなって言われると、我慢ならない性格でした。
とにかく、落ち着きのないまま大人になって、経営課題などにも取り組んでいました。それが活かされて、自分の強みとなっていますね。落ち込んだとしても、うずくまって動かなくなってしまうのが最悪だと思っています。
ダメになったとしても、動き回ってさえいれば、みんなが共感し、認めてくれるのだろうなと思っていますね。だから、逆境であればあるほど動き回らないとダメなのですよ。
進んで苦労しろ。その先に成長あり
—— 最後に、学生へのメッセージがありましたらお願いいたします。
「迷ったら茨の道へ行け」ですね。人間って、怠慢なので楽な道を選ぶのですよ。目先のものに飛びついて、楽な道を選ぶのですよ。
中・長期的に見たときは、絶対に茨の道が正解ですね。迷っている時点で、本当は頭のどこかで辛い道の方がいいとわかっているのですが、やっぱりどうしても人間楽な道を選んでしまうわけですよ。だから、その怠慢を抑えて茨の道に行く事が大切です。
あともう1つ、「若い頃からの苦労は買ってでもしろ」ですね。これは幼少期から父や祖父から散々言われていましたね。
私が東レ株式会社に勤めている時の話なのですが、新人研修が終わった時にどの部署に行くか選べる機会がありました。その時、一番しんどい部署にしてくださいって言いましたね。東レ株式会社の人には、「あなた馬鹿ですね(笑)」みたいに言われましたけど、その時の経験は父の会社に行くときにも活きています。
正直、自分で茨の道を選んで後悔したこともありますが、後々考えれば、あの時の経験が絶対にプラスになっているってなりますからね。
「迷ったら茨の道へ行け」と、「若い頃からの苦労は買ってでもしろ」なんて言葉、昔から言われ続けています。何か利がないとそんな風に今まで言われ続けてないですよね。