やらないと誰も幸せになれないという世界観のなかで、踏み込めるかどうか
—— PA(在宅医療アシスタント)は学歴を問わない人ということですが、夜の仕事をしている人もできるのですか。
真剣に人の命と向き合いたいというところがあるのであればできると思います。今のところ、夜職あがりの人はいないので、面白い枠だと思います。
PAは高卒でも中卒でも良いと言っています。アメリカンドリーム的に、成功してちゃんと真っ当になればお金が稼げるというポジションにしたいと思っています。
――PAに必要なコミュニケーション能力とはどういうものですか。
コミュニケーション能力というものを最初から問うわけではありません。それは、患者さんやご家族と話をするときに、基本的にはドクターがいて、その補助という形で入ります。その人自身が表現して引き出すようなことは、最初は求められません。
基本的には、残された時間が限られているなかで、その時間をどのように使ったらその人と家族が「温かい死」を迎えられるかという問いに対してアプローチしているわけです。こういう病気でこういう痛みがあるからこういう薬を出せばいいというサービスは前提で、それ以外にその人たちにとっての幸せってなんだろうということを一緒に作っていく関わりがあります。
――そこまで踏み込んでいいのかというのが、結構難しいですよね。
難しいというのは、「いいのかな」も「だめなのかな」も基本的にないことです。相手にとって本当にこれがいいのかっていうのは必ず答えのない問いです。やらなければ誰にも責められませんが、やらないと誰も幸せになれないという世界観のなかで、踏み込めるかどうかということを我々は問うているわけです。
なんでもかんでも踏み込んでいいのかというと、そうではありません。タイミングもやり方も様々あるので、常に「本当にこれでいいのかな」と考えながらアプローチすることが大切なんですよね。
残り1ヶ月で死ぬと言われたら何を大事にするか
—— 最期のときに携わるというのは結構重大な役目だと思うのですが、嫌な思いをさせてしまったら、というのもありますよね。
そこは、世の中からみたらそうだと思いますが、我々からすると我々が見ている患者さんは亡くなることが前提なのですよね。よく言うのは、ジェットコースターに乗っている人はいつ落ちるだろうって不安ですが、横から見ている人にとってはジェットコースターの動きは予想できます。
落ちることを怖いと言っているうちはその人の生き方に言及できません。落ちることは前提で、ジェットコースターをどれだけ楽しんでもらおうかという発想です。残り時間が限定されていることで、自分にとって一番何が大事なのかを考えやすい現場でもあるのですよ。
残り1ヶ月で死ぬと言われたら何を大事にすると思いますか。みんな最初は「あそこに行きたい」や「あれ食べたい」と言うと思います。それをやってみると、楽しいし、美味しいですが、「どうせ私は死ぬ」という現実に引き戻されます。その次はどこに思考がいくと思いますか。
「私が寂しいから一緒にいてほしい」になりますよね。さらに、死んだ後のことを考えると、「私が生きていた意味ってなんだったのだろう」とか、「この人たちに対して何を残せるだろうか」と考えると思います。残された命を誰のためにどう使うかを考え、命の使い方という発想を持ち始めます。「命を使う」とかいて、「使命」と読むじゃないですか。
亡くなっていく本人が、自分ではなく周りの人のために何かできるかなと思う関係を作ることができれば、とてもあったかくなるのですよ。それは我々が作りたい「あったかい死」というものです。あったかい死によって、残された人たちもその時間を一緒に生きたことが自分たちの誇りになるので、その人が亡くなった後もその死が良い形で残っていくのですよね。
医者になりたかったというより、医者ではない側にいたくなかった
—— どうしてお父様が亡くなられた辛く過酷な状況を「医者になってやるぞ」というエネルギーに変え、現在までその意志を持ち続けられたのですか。
そこは、あまり前向きな強い意志ではありません。父親が亡くなったときに自分は何もできなかったという感覚があり、何もできなかったことを医療者と非医療者との間にあった壁のせいにしました。医療者側にいたら、きっともっとできたのに、と。
医者になりたかったというより、医者でない側にいたくなかったというのがベースです。もし、母親が同じ状況になったときに二度とあのような思いをしたくないと思っていたので、医療者側になろうと思いました。憧れというよりはコンプレックスというか、医療者側になって恨みを晴らすという感じです。
――東大医学部を卒業後、国際医療チームの一員として軍事政権下にあったミャンマーへとありますが、なぜミャンマーに行こうと思われたのですか。
医者になって2年間は臨床研修といって全部の科を回ります。僕は何でもできるようになりたかったので、若いうちからいろいろな修行を積ませてくれるような病院に行きました。3年目になって専門を決めるときに、自分が医者になろうと思ったのは、単に医療者ではない人間でいたくなかったという理由だったことを改めて考えました。
それぞれの専門家の医者を目指すことに対してモチベーションがありませんでした。医者の世界って見れば見るほど単なる技術者だということが分かります。どんどん細分化されているため、世の中で言われるほど人を救うという実感を得られにくく感じました。
僕は、小学校がイギリス、高校がアメリカで、後は日本。先進国でしか生きたことがないので、我々は甘やかされて生きているという感覚がコンプレックスでした。途上国の人の方がリアルに生きているなと思っていました。それで、途上国に行きたいという話を周囲にしていた中で、たまたま先輩が教えてくれた団体がミャンマーにあったことがきっかけです。
途中で帰りたいと思ったことはありませんでした。「きつい」が嬉しくて、僕は1分1秒が濃ければ濃いほど満足でした。「こんなことできている、俺すごい」というのが自分のエンジンになります。さらに、実際自分の腕が上がっていて、人が喜んでくれている実感もあるので、良い修行をさせてもらっているなという感じでした。
――そこから、「東大発 新しい医療を板橋で」とありますが、これはミャンマーから帰ってきてすぐたてようと思ったのですか。
まず、日本の最先端の技術を学びたいと思ったので、一旦東京の大学病院に帰ってきて、専門家としての修行を4年間して、33歳の時にやまと診療所を作りました。
一番大きい挫折は、診療所を開設して2年目でした。簡単にいうと崩壊しかけていました。
僕は、一緒にやってくれているスタッフも同じ思いでやっていると信じていて、一枚岩になっていると思っていましたが、蓋を開けてみると「あれ?」という感じでした。下手するとみんな一気に辞めてしまうという状況になりかけていました。
みんなが自分の人生が楽しいと思ってもらえるような関わりをしていなかったのです。自分はやりたいことをやっている、他の人たちはそれを手伝わされているという形式でした。楽しいと思ってもらえる環境をつくっていくのには、考える時間や一緒に話す時間、スタッフが自己効力感を感じられる仕組みなどがないとみんなが楽しいと思える組織はできないと教えてくれたのが2年目の経験でした。
過酷かどうかは自分が決めること、「楽」と「楽しい」の差
—— 医療現場は過酷なイメージがあるのですが、そういう気持ちの部分って大事なのですか。
過酷かどうかは自分が決めることなので、自分がやりたいことと現場が一致していれば過酷と感じません。我々は「楽」と「楽しい」の差だと言います。仕事を通じて自分の人生を豊かにするという発想で働くと、多くの仕事をもらえる方が豊かになるし、多くの責任をもらって良い仕事をすることで社会に貢献して自分も学べるということが、自分の人生が楽しいということになります。
――在宅医療で活躍するのはどんな人材ですか。
「人が好き」という表現をしています。人の人生に対して踏み込んでいって、その人が喜んでくれたら私は幸せだと言えるかどうかだと思います。人が喜んでくれたら嬉しいということを自分の幸せと強く結び付けられる人は向いていると思います。
うちは基本的に医療系のベンチャーと言っています。若い人たちがワクワクできていなかったら意味がないと感じます。職場の雰囲気は想像しているよりずっと明るいと思いますよ。
「人を想う」というヒューマニズムの部分を大事にしていくこと
—— 今後どのように医療を変えていきたいですか。
人が人を想うことって、本質的にこの社会に置いて大事なことですよね。でも残念ながら日本は今、効率化とか、IT化とかが正義だという文化になっています。そこを否定する必要はないし、効率化はしていく一方で、「人を想う」というヒューマニズムの部分を大事にしていくことは重要ですね。
これを大事にしていくことで、仕事を通じて自分の人生を充実したものにしていくことができるわけです。ヒューマニズムを追求し、効率的にも企業としても上手くいって、会社が大きくなって社会にしっかり貢献できる仕組みの中で自分自身も成長できる企業体を作りたいです。
――最後に、若者に対して一言お願いします。
僕自身のことをいうと、20代、30代はすごく生き急いできたと思っています。今、40歳になって、初めて自分の人生をこれからどうやっていこうかということに向き合えていると感じます。20代、30代のうちに、条件で選ばずがむしゃらに生きるというのが良いんじゃないかなと思います。