興味の赴くままに行動する人生
—— まずは桝屋の事業内容についてお伺いしてもよろしいでしょうか。
桝屋は創業113年を迎える歴史ある企業です。経営陣は親戚ばかりであり、一族そろって経営している会社になります。1907年(明治40年)に会社組織となり、戦後はスーパーマーケットが事業の中心でした。それからは本屋や車のディーラー、更に景気が良いときには洋服やディスカウントストアへと事業拡大をしました。
今は、不動産を中心的として収益を上げています。ただ、他の事業の継続や新規事業の開拓も続けていきたいと考えているので、最近は新規としてパーソナルトレーニングやデイサービス等を経営したりと様々なことに取り組んでいます。
それらの新規事業のなかで特に注力しているのは、介護事業です。2、3年前くらいにスタートし、デイサービスなどの介護保険認定を受けているお年寄りを対象にサービスをしています。老いとともに体が動かなくなるのを少しでも阻止してもらえればと思い、お年寄りに健康になっていただくためのサービスを始めました。
――会社の家系で育ったということもあり、幼少期から経営者になるという意識はあったのでしょうか。
次男だったということもあり、小さいころからプレッシャーというものはそこまでありませんでした。私よりむしろ兄の方がプレッシャーはあったと思います。実は私より先に兄が会社に入ったのですが、色々あって兄は辞めてしまいました。
大学を卒業してから経営者になった決定的なきっかけというものはなく、経営者だった親に誘われたので会社に入ったのが事実です。その前は、普通にサラリーマンとしてNTTデータで3年間働いていました。そのときに親から会社に入らないか?と誘われ、単純に経営者に興味があったのでやってみたいと思ったのが、経営者になった経緯です。
普通なら経営者という役職はプレッシャーも大きく、重責だと考える人が多いかと思います。しかし、私の場合は興味があったからやってみた、たったそれだけでした。もしかすると、何も深く考えずに飛び込めるタイプなのかもしれません。
――東京大学を卒業し、多くの人のように大企業で働き続けるのではなく、経営者というチャレンジする道を選んだのはなぜでしょうか。
学生時代、ホームステイやバックパックで何ヶ国か回りました。その海外経験を通して、日本に固執しない価値観を知ったのです。海外は、みんなが大企業に入ろうとは思っていません。むしろ優秀な人たちはどんどん起業していきます。
日本も最近は、そういう傾向が強くなっているように思います。しかしまだまだ、大企業、有名企業で働き続けることが安定の道だと考える人は多いはずです。いい大学へ行っていい企業で働く、それがエリートロードではないことを海外の人々の価値観から学びましたね。東京大学を卒業したからと言って、リスクのない道を進むことが絶対的ではないのだと思い、経営者としてチャレンジする道を選びました。
――社長に就任してから大変だったことは何でしょうか。
書店の経営に関してですが、業績が良くなかったときに2店舗を閉め、取引先の問屋さんも変更しました。出版業界は問屋が強く、日販(日本出版販売)とトーハンの2社が強いとされており、その2社がほとんど独占しているような業界です。出版業界以外のように、いくつかのところから仕入れられれば良いのですが、難しい部分があります。
もともとは日販から仕入れていたのですが、そこからは今はもう無くなってしまった太洋社に仕入れ先を切り替えました。そうなると、日販に事前に仕入れ先を変更する旨を連絡をしなければなりません。そして日販に連絡を入れたところ、なんと連絡した翌日から商品を送ってくれませんでした。そのような事態は全く予想していなかったので相当焦りました。
商品が入荷されないことで、お客様から怒られることもありました。そのときは咄嗟に新しく仕入れる会社へ事情を連絡し、どうにか早急に商品を送ってもらえないかとお願いしたのです。お願いした会社側のほうでも混乱はあったと思うのですが、最終的に承諾してくださり何とか商品を陳列することができました。
業績不振を改善させた「やめる決断力」とは
—— 長く歴史のある企業であるにもかかわらず、次から次へと新しい事業を展開されていらっしゃいますね。
桝屋の経営の軸として変わらないのは、時代のニーズに合わせ変化していくということです。113年のなかで結構やることを変えてきています。歴史をさかのぼると、先祖が事業を始めた江戸時代には、船で荷物を運ぶ商売を行っていました。その後だんだんと車と汽車が誕生し、その商売は消えてしまい次には卸売業を始めたのです。
第2次世界大戦が終わってからは、これからは小売りがいいということで、1958年からスーパーマーケットの営業を始めました。当時はスーパーマーケットを始めている人は同じ地域にはあまりおらず、注目されました。肉は肉屋で、魚は魚屋で買うというのが普通とされているなかで、スーパーマーケットの存在は人々にとって便利であり新鮮なものでした。そのときのニーズにあっていたから、すぐに20店舗くらいまで増えましたね。
戦後が終わったときの人々の価値観は、今とは少し違います。豊かさ=モノという考え方でした。モノがない時代だったため、モノがあること、モノを売ることが豊かさだとされていたのです。それから高度経済成長が終わり、だんだんとモノも満ち溢れてきます。その後人々のニーズはモノから娯楽へと変わりましたが、現代ではスマホが普及したことで娯楽の形も変わり、ゲームセンターが潰れたり、パチンコ離れが見られたりするようになりました。
そしてこれからの時代に人々の豊かさをつくるのは、人がいつまでも健康でいられることだと考えています。年老いても元気に働けるのが理想なのではないかと思いました。
――これまでに苦労したこと、またそれを乗り越えてから得た教訓はありますか。
私が経営者という立場になってから、会社を変えていくうえでいくつかの決断をしてきました。決断をするとき、もちろん自分の代でダメになってしまわないか、潰してしまうのではないかという思いから、その決断が間違っているかもしれないと不安になることも何度もありました。
確かにプレッシャーは抱えていたけれど、私の父を含め、今までの経営者はこうやって変えてきたんだ、と考えるようにすれば自然と不安は取り除かれました。変わらなければ、悪い状態が良い状態に変わるはずはないことを知っていたからです。
結果的に経営を赤字から立て直したのは事実ですが、新店を出していくなかで3回程失敗しました。費用と時間をかけて新店を出しているため、正直とても辛いです。そうやって失敗する前には、必ず悪い方向に向かっていることが数字や業績を見ていると分かります。ここで大切なのは、まずいと思ったら早くやめることです。
良くない状態のまま1年も2年も続けてしまうと、損失もそれだけ増えてしまいますし、どんどん決断できなくなってきます。「やめる決断力」が経営者として重要であると思います。
やめる決断はとても勇気がいることですが本当に重要です。今までのコストのことは忘れましょう。お店にかけた工事の費用だとか敷金礼金だとか、それはもう考えてはいけません。
1000万円かけたから1000万円取り返すまでやめない、という風に思い始めるとズルズルと辞められなくなってしまいます。1000万円かけたことはもう過去のこととして割り切りましょう。無理やりでも切り替えないと辞められないのです。
学生へのメッセージ
—— 最後に、学生へのメッセージをお願いします。
今、コロナウイルスの影響で就活と学校は大変だと思います。飲食店も軒並み閉店で、普段は人で溢れかえっていた山手線でさえガラガラ状態です。このような事態は歴史を遡ってもなかなかないと思います。
暗くなる気持ちは当然あるでしょうけど、プラスに考えてみると、逆に社会に出る前にコロナによる世の中の変化を経験したということはラッキーかもしれません。実際に今、会社が潰れそうだという人もいて、既に潰れてしまった人だっています。たしかに大変な状況だけれど、社会に出る前にこういう経験ができたのは、今後社会に出てから活きる場面があるのではないでしょうか。
コロナウイルスの事態も含め、学生時代に経験することは、必ず社会に出てからプラスになってきます。そう信じてこれからの就活、学生生活を楽しみ、様々なことに挑戦していってください。